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得心応手(聖人の言葉はつまらない残りカス。 [中国の寓話]

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  春秋時代のある時、斉の桓公が堂の上で真面目に書物を読んでいた。その堂の下で老木工匠の輪扁が車輪を作っていたが、つちとのみをおき、堂に登って桓公に問いかけた;

  「お殿様の読んでおられるのはどんなことばですか?」
  「聖人のことばだよ」

  「その聖人は今も生きておられますか?」
  「とっくに死んでしまわれた」

  「それなら、古い人のつまらない残りかすじゃないですか」
  「車輪作りふぜいが大きな口をたたくな!何故だ?言ってみろ、道理があれば許す、さもなくば死罪に処す」

  「私の車輪作りから考えるに、削りが甘ければ輪のスポークががたつくし、削りがきつければうまく嵌め込めない。甘くもなくきつくもない微妙な加減は体で会得して心に納めるだけで、ことばでは言い表せないものです」

  「たとえ自分の子供であっても教えられず、子供も受け継げないでいます。だから70才になってもまだ車輪つくりを続けています。

  古人も同じように一番大事なものは残せず、残りかすだけが残されるのではないでしょうか」

桓公はこの話を聞き、そうなのだと大きくうなずいた。

  この「得心応手」は後に「手が自分の心のままに自由自在に動く」ことを表現する四字熟語となり今の世に写真のように活用されている。(パソコンの維持と故障排除の意味)

  この話は元々書物は生き方を求めるために尊重すべきものである。でも、ことばを連ねたものにすぎない。

  物事の本当の大事なことは言葉では伝えられないものであると荘子は言いたいのだ。

  目で見る色や形、耳で聞く物の呼び名や音声などでは事物の本当の姿は十分つかめない。たとえば、ぬくもり、肌ざわり、手加減など様々な微々たる要素が重要な働きをなしているのだ。

  私の場合、野菜作りの参考書は多くあるが、肝心なことは抜けていて、役に立たないのを痛感したものである。

  {荘子 天道篇}より
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