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懸念が消える [暮らし]

今日は様々な懸念が解消し気分が晴れやか。

まず第一。NTTの料金紹介方法を紙からnetに変更する手続きが完了。つぎ、iPadのiPhoneが開かない件は再起動したら治った。つぎ、fc2ブログの動作不具合の件は操作方法が分かりづらく、やり方を発見して一件落着。

秋野菜の種まきは計画通り順調に進む。明日からもボチボチやる。

iPadアプリのキャンディクラッシュは現在344まで進んでる。これ、かなり順調。
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秋耕に備え体力調整 [暮らし]

風邪気味で3日間自重して家でゴロゴロ。今朝調子良いので郵便局へ二度も往復。調子に乗ってスーパーへ買物。これが余計だったか又もしんどくなったので昼寝して元に戻った。やれやれ。

明日は朝から雨らしいのでどこへも行かずゆっくり休みたい。何せすぐに秋耕し、大根や白菜の種蒔きに取り掛からねばならない。
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画像投稿練習 [パソコン]

画像投稿の仕方を忘れたのでテストする。
image-20140824194113.png

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行動が慎重になる [暮らし]

忘れていたブログ。暫く振りの投稿。中国古典の面白そうな故事はあらかたネットに書き尽くした感あり。あと有るのは誰も読んでくれそうもないものばかり。で、なんでもござれ現代もので茶にごしでもするか。

75歳後半ともなるとやっと年取るって実感がつく。一つ間違えば命にじかに直結するし、上手く行っても寝たきりだ。それだけ行動に慎重になるってわけ。

以前は畑まで自転車で五分弱のコースは早くて便利な道。でも今年春からは絶対安全なコースを選んでる。畑作業でも鍬や鎌を持ち歩く時も慎重を期し、周囲の安全を確認する。

夫婦二人どちらがアウトでも生活がガラリと変わるのだ[exclamation]?で、より慎重になる。死ぬのは一向にかまわないが長く臥せってからはごめん蒙りたいもの。
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無値之宝 [中国の寓話]

aoai2a1.jpg                           
  ある日、西域からやってきた商人が市場で「珠宝」を売りに出した。いずれも燦然と輝き、とても価値のあるものばかりだった。特にその中で{} (サンゴのサン)と名付けられたものは、ひときわ人目を引いた。

 色合いは「朱紅」でまるで「桜桃の花」のようである。大きさは直径一寸、数十万銭以上はすると言う。人々はなんと凄い宝石だと感嘆した。

 儒者の「竜門子」は弟子を引き連れ、ぶらぶら市場を散歩していた。大勢の人が店を取り囲んで騒がしいので覗いてみると、例の「珠宝」店だった。

「竜門子」;「その{珊}を食べれば腹がふくれるか?」
「商人」 ;「食べられない」

;「では、身につければ病気が治るのか?」
;「治らない」

;「災禍から逃れられるか?」
;「逃れられない」

;「それを持てば、よく親や兄に孝行するか?」
;「そんなことはない」

;「なんと奇怪なことよ、何の役にも立たないなんて。しかも数十万銭以上するって?何故だ?」
;「人里途絶えた遠い遠い所で発見し、艱難辛苦して運び出したこの世にない非常に稀な宝石だからです」

 「竜門子」はあきれて馬鹿馬鹿しくなりその場を離れた。弟子たちは先生の意を計りかね教えを請うた。

 弟子達;「先生の意が分かりません。どうか教えて頂きませんか?」

 竜門子;「昔の人は言っている。黄金は宝物だと、でも食べれば死ぬし、粉末が目に入れば目を病む。だから私はずっと前から宝物を追わない。なんとなれば、私の身体には世に言う宝物より大変貴重な宝物がある」

 「その価値はどの「珠宝」よりも計り知れないほど高い。その上、水に沈まず火にも焼けない。勿論どんな風が吹いても、どんな日照りにあってもびくともしない」

 「また、それを用いれば天下が安定し、私自身とても良い気持ちになれる。人はこのような宝物をないがしろにし、他に「珠宝」を求めるから身も世も病むのだ」

 「竜門子」のいう宝物とは{美徳}や{徳目}のたぐいであり、{完美な精神生活}であり、これを追及することこそ「無値之宝」なのである。と弟子たちに熱く語るのだった。

  {唐 魚玄机《贈隣女》}より  
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女の子と大蛇 [故事の中の大道理]

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   これは本当にあった出来事です。五才の女の子が家を出たきり二日経っても戻らなかった。両親は大変心配し、知人や親戚など総動員してやっとみつけた。

   それは、河の砂州で、あろう事か死んだ大蛇のとぐろの中で眠っていた。後で分かった事だが女の子はこの砂州で遊んでいるうちに、突然大蛇に襲われた。

   女の子は怯えることなく勇敢にも両手を伸ばし、大蛇の首根っこを押さえつけた。急所を押さえつけられた大蛇はとぐろを巻き、女の子を締め上げた。

   然るに、女の子の身体は小さく、且つ、大蛇は大きすぎて、隙間ができ、身体がすっぽりと入り込み、安全だった。
   
   それで女の子は三時間ほど首根っこを押さえ続けると大蛇はゆっくりと柔らかくなっていき、なお、二時間余り押さえ続けていると死んでしまった。
   
   この話が近在に広がると人々は様々な憶測をした。
   
   ある人は:「この子は生まれつき大変な念力の持ち主だったのだ!」。又、ある人は:「大蛇は腹が減っていて、元々力が無かったのさ!」。又別の人は:「大蛇は元々病気で、弱っていたのさ!」等など。
   
   めったに無かった出来事なので人々はとまどい、あれやこれやと推測するが本当の事は分からなかった。

   {人は生命に関わる特殊な環境下に置かれた時、巨大な潜在能力が突発し、己が身を守れるすべを具えている}。{火事場の馬鹿力もその一つ

{翻訳:小故事中的大道理}
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牛解体職人の理 [故事の中の大道理]

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   国王は有名な牛解体人の易に、一頭の牛をさばいて見せろと言った。易は刀と自分の手足や膝など全身を使い、とてもリズムカルに短時間に静かにさばいて見せた。

   国王はその手さばきに感心し、どのような修業をしたのか?と問うた。
   
   易は、始めて三年間は各部位の成り立ちや骨や筋肉のつながりなど仔細に観察ばかりしていた。それで牛の体の成り立ちをつかみ、例えばある一点を押さえれば、それに繋がる筋や骨がゆるみ、わずかな隙間が出来る。そこへ刀や手を当てれば自然にほぐれ、容易にはがれる。
   
  従って私の刀は研がなくても、十五年余り使っているが少しも切れ味は変らない。 一人前の解体人でも一年に一度は刀を新品に替え、普通の解体人は毎月一回新品に替える。彼等はまるで木を切るように刀で叩き切るからだ。
   
  国王は易の話に深く感動し、「人が身体の養生をするにも一脈相通ずる」と,事の理に感心した。

  {一切の事物はどんなに複雑でも、内在している規律に拠っている。規律を探し解明し、その拠って立つ理に沿って事を運べば道はたやすい}

 (とは言うものの、事はそんなにうまくいかないとは皆さん先刻ご承知なのだ

{翻訳:小故事中的大道理}
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名手と達人 [故事の中の大道理]

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   弓の名手の張は、道教の和尚にその名手振りを見せた。張は次々と矢を放ち、すべて的の中心に当てた。その速さ、正確さはまるで機械のようだった。

   和尚は「なるほど凄いな、でもどんな状況下でも出来るのか?」と言い、張を伴って切り立った山の頂上まで登って来た。両側は断崖絶壁で足を踏み外せば千尋の谷底まで真逆さまだ。

  和尚は張に先に行けと言うと、張は足がすくみ、一歩も前へ動けなかった。

   和尚は「その道の達人とはどんな困難な状況下に措かれても、平常心で自己の技術を充分に発揮できる者を言う」と言い、お前はまだまだ修業が足りないと諭された。

{翻訳:小故事中的大道理)
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桑中李樹「イワシの頭も信心から」{中国の寓話} [中国の寓話]

kuwa51a.jpg                       
 むかし、ある男が「すもも」の実を食べながら歩いていた。食べ終わると「種」を傍らの「桑の木」の幹の大きな空洞に吐き捨てた。男はその上に土をかぶせた。

  別にここで「すもも」を育てようなどと考えたわけではない。ただの余興気分だった。その後、男はその事をすっかり忘れ去った。

  歳月が過ぎ、「すもも」は芽を出し誰知らぬ間に人目につくような大きな「すもも」の樹に成長していた。

  人々は「桑の木」の中に「すももの樹」が生えているのを見て、これは珍しい大変「神奇」なことだと崇めたてまつるようになった。

  ある目の悪い人がこの話を聞き、これは「神樹」にちがいないと思った。彼は白い杖をつきつきこの樹の前にやってきて;「李樹さん、もし私の目が見えるようになったらどんなお礼でもします」と「願」をかけた。

  するとすぐに目の痛みがとれ、数日のうちに目が見えるようになった。彼はとても嬉しくて会う人ごとに「神樹」のお陰だと熱っぽく語った。そして「神樹」の前にお供え物をし、かねや太鼓を打ち鳴らしお祭りをした。

  この話は瞬く間に近在に知れ渡り、目の悪い人ばかりか「百病」にも効くとうわさが広がり、人々はお供えをし「願」をかけた。

 ある時、「すもも」の実を吐いた例の男が旅の途中で再びここを通ると、「神樹」さわぎになっているのに驚いた。

  男は「いきさつ」を熱く語ったが誰からも相手にされず、かえって怪しい人とされ、すごすごと立ち去らざるを得なかった。

  目が治ったのも、病気が治ったのも「信心」による自己の精神作用の偉大なはたらきによるもので、まだ科学では解明されない未知の領域にかかわることがらであろうか?「イワシの頭も信心から」を甘く見てはいけない?!

  {中国寓言 作者不詳}より   写真は桑の木とその実 。
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笨人掬豆(なぜ、黒豆に尾が生えたん?) [中国の寓話]

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  隋朝の時代、一人の百姓が畑で収穫した「黒豆」を車にいっぱい積んで町で売ろうと道を急いでいた。ある川べりにさしかかった時車輪が石に乗り上げてひっくり返り、「黒豆」が全部川に落ちてしまった。

  とてもじゃないが一人で水からすくいあげるのは無理だと思い、一度村へ引き返し家族の応援を得ようとその場を離れた。

  たまたまこの川べりを歩いていた人たちは、「黒豆」が川の中に浮かんでいるのを見て、もったいないからと次々と水からすくいあげ、きれいさっぱり全部持ち去った。

  しばらくして百姓が応援部隊を引き連れてやってきたが、そこにはただ千匹以上のオタマジャクシの大群が浮かんで遊んでいるだけだったのだが、百姓は「黒豆」だと勘違いし、水に足を入れると一斉に「黒豆」が水の底に消え去った。

  百姓はなぜ「黒豆」が驚いて逃げたのかわけが分からず、長い間ぼんやり突っ立ったままだった。そしてわずかの間に「黒豆」に尾が生えていたのかどう考えても合点がいかなかった。

{中国古代寓言 作者不詳}より
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河中石獣(大石が上流へ流れる?!) [中国の寓話]

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  中国の河北省滄県の南の河岸に、寄りかかるようにして大きなお寺がある。昔、大水が出た時に正面の山門が河に崩れ落ち、一緒に山門の傍に守り神として鎮座していた一対の大きな獣の石像(日本では狛犬)も同時に河底に落ちてしまった。

  十数年経って和尚さんが募金を集めお寺を修復したが、一対の獣の石像が無かったので探すことにした。河は流れがとても速いが、深さは人の背丈ほどしかない。

  和尚さんは石像は重いが水の浮力と急流によって下流に流されたと思った。それで人を雇い小舟に鉄の爪をつけた道具で下流10キロまで探したが見つからなかった。

  お寺で講義をしていた学者がこの話を聞き;「馬鹿か?」と嘲笑い;「木片じゃないよ石だよ、流れるものか!」「石は硬くて重いし川底の砂は軽くてもろい。従って砂に埋もれ、時が経てば経つほど深く埋もれる」と話した。皆はなるほど道理だと感心した。

  この話を聞いた一人の老船頭は「あの学者は馬鹿か?」と嘲笑した。

  老船頭が言うには;「石は河のはるか上流に転がって行ったはずだよ」と話した。皆は「そんな事ありえない、お前こそ馬鹿か?」とてんで相手にしない。そこで、老船頭が地面に絵を描いて皆が分かるように詳しく説明した。

  石は硬くて重いし川底の砂は軽くてもろい。水が石に当たっても石は重くて動かないが、石の前面下の水は石によって左右に分かれ流れが速くなり、その分砂が持ち去られて穴ぼこができる。

  穴ぼこは時が経てば経つほど深くえぐれ、石は穴ぼこに倒れ落ち上流に向かって一歩進む。石はその新しい場所で再び同じ事を繰り返し、10年も経てばはるかな上流までさかのぼっていくのだ。「さあ、皆さん河の上流を探しましょう」と言った。

  皆は半信半疑だったが、上流を探すと驚いたことに数百メートル先で石像がみつかった。

  この話は「河中石獣」として中国では有名。写真は中国雲南省シーサンパンナのタイ族寺院の石獣。

  {中国 中学国語}より
     
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掘井戸得一人(話には尾ひれがついて一人歩き) [中国の寓話]

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 宋の国に「丁」という名の百姓がいました。この家には井戸がなく、毎日遠いところまで汲みに行かねばならず、そのため日がな一日誰か一人がいつも外に出て水を汲みに行っていました。

 後になって、庭に井戸を掘ると水が湧き出てきました。家族は皆大喜びで、つらい水汲みの労働から逃れることができ、おまけに一人の労働力が浮きました。

 百姓の「丁」さんは嬉しくて見知らぬ人に;「庭で井戸を掘ったら、お陰様で人をひとり得ました」と話しました。

 この話を「丁」さんから聞いたその人は別の人に;「「丁」さんが掘った井戸から人がひとり出てきたそうだよ」と話しました。

 この話は、珍しいこともあるものだとまたたくまに国じゅうに広がり、宋の国王の耳にも伝わりました。

 国王は;「なんと奇怪なことよ!」と官員を「丁」さんの家に派遣し調べてみると、「丁」さんが言うには;「私は井戸を掘ったお陰で一人の労働力を得ました。決して井戸から人を掘り出したわけではありません」と答えた。

 世上には伝奇や怪事がとても多く、真意を調べもせずに尾ひれをつけて面白おかしく伝えられるもの。どうか踊らされずしっかり見極めたいもの。

 この話は魯の国の「魯王」が「孔子」に事の本質の見分け方のレクチャーを受けていた中で、「孔子」がこの寓話を持ち出して理解を促したもの。

 (画像は宋時代の井戸の様子。{元享利貞}の「王弘力・古代風俗百図」)より

   {呂氏春秋 察伝}より
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狂泉(この水飲んだら皆狂った) [中国の寓話]

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  むかし昔、大きな山の中に小さな国があった。この国には泉が一つしかなく、人民は皆この泉の水を飲んだ。

  この泉は昔から「狂泉」と呼ばれていて、この水を飲めばすぐに狂ってしまうのだった。それで国じゅうの人民は皆狂っていた。

  ただし国王ただ一人だけ特別に自分専用の井戸を掘って飲んでいたので、国中全部が狂っていた中で一人だけ狂っていなかった。

  狂った人民から狂っていない国王を見ると、それは明らかに病人である。

  そこで心やさしい人民は国王の病気を治してあげようとハリを打ったり灸をすえたり、あれこれ薬を試したり、思いつく限りの様々な治療を施した。

  国王は人民の熱い思いに喜びながらも我慢して耐えた。でもあまりの治療の苦しさに耐え切れず、人のいないすきを見て「狂泉」にかけつけその水を飲んだ。すると国王もすぐに狂ってしまった。

  これで国王の病気もやっと治り、国中が目出度く皆狂い、以後国じゅう全部が楽しく暮らしたそうな。

  {この寓話は独裁国家に対する人民革命の様子を映し出しているように見えるがいかがでしょうか?}

  {なお、中国のブログに「未だに中国への侵略を認めない日本人はまだ狂泉の水を飲んでいる」と書いてあるのがあった。}

  {写真は2005年春に行って撮った中国雲南省大理にある「蝴蝶泉」で、春に蝶々の大群がやってくる。今は蝶々よりバスを連ねて観光客がやってきて騒がしく、肝腎の蝶々が寄り付かないそうな}

   {六朝 宋書}より
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嘆牛 (用が済んだら惜しげもなく捨て去る) [中国の寓話]

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 劉さんが散歩していると、一人の年寄りが足の不自由な一頭の牛を曳いてやってくるのに出会った。

 劉さん;「体格のいい牛だね。でもどうして足が悪いの?それにとても恐れているね、どこへつれていくの?」
 年寄り;「良いえさを与えたからだよ、足は働き過ぎて痛めたんだ。」

 劉さん;「どんなふうに?」
 年寄り;「千斤の荷物をひき、北の雪山を越え、南の渓谷を渡り泥濘をかきわけ日照りにあえぎながらよく働いたものだ」

 劉さん;「でも、足以外は満々と肥ってじょうぶそうだね」
 年寄り;「ん、で、高く売れるので肉市場へ売りに行くんだ!」

 劉さん;「あなたは利益を得たいし、牛はあんなに働いたのに死なねばならん。可哀そうだ。さて、どうしょう?。わしは金がないので今着ている服を売ってこの牛を買い、野原に放ってやりたい」。どうじゃ?
 
 年寄り;「わしは酒を飲みたいし肉も食いたい。子供に飴を買ってやり、かあちゃんには綺麗な服の一つも買ってやりたい。そんなお前さんの安物の服なんか話にもならん」。と笑ってとり合わない。

  劉さん;「あーあ、用が済んだら惜しげもなく捨て去るのだ」と大きなため息をついた。

 昔、呉の国の国王は覇業を成し遂げると大功のあった伍子胥を自殺に追い込み、秦の始皇帝は帝に就くと首相の李斯を馬裂きの刑に処し、比類なき勇者の韓信もまた身に覚えのない罪を着せられ獄に朽ちた。岳飛もまたしかり。

 {ひるがえって見れば、今の世も似たようなもんだ。派遣切りに肉親の高齢者虐待も同じ流れに見えてくる。これらすべてはこの牛と同じだ。なんて悲しいことなんだ!}

 {寓林折枝}より  写真は韓信の勇姿
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得心応手(聖人の言葉はつまらない残りカス。 [中国の寓話]

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  春秋時代のある時、斉の桓公が堂の上で真面目に書物を読んでいた。その堂の下で老木工匠の輪扁が車輪を作っていたが、つちとのみをおき、堂に登って桓公に問いかけた;

  「お殿様の読んでおられるのはどんなことばですか?」
  「聖人のことばだよ」

  「その聖人は今も生きておられますか?」
  「とっくに死んでしまわれた」

  「それなら、古い人のつまらない残りかすじゃないですか」
  「車輪作りふぜいが大きな口をたたくな!何故だ?言ってみろ、道理があれば許す、さもなくば死罪に処す」

  「私の車輪作りから考えるに、削りが甘ければ輪のスポークががたつくし、削りがきつければうまく嵌め込めない。甘くもなくきつくもない微妙な加減は体で会得して心に納めるだけで、ことばでは言い表せないものです」

  「たとえ自分の子供であっても教えられず、子供も受け継げないでいます。だから70才になってもまだ車輪つくりを続けています。

  古人も同じように一番大事なものは残せず、残りかすだけが残されるのではないでしょうか」

桓公はこの話を聞き、そうなのだと大きくうなずいた。

  この「得心応手」は後に「手が自分の心のままに自由自在に動く」ことを表現する四字熟語となり今の世に写真のように活用されている。(パソコンの維持と故障排除の意味)

  この話は元々書物は生き方を求めるために尊重すべきものである。でも、ことばを連ねたものにすぎない。

  物事の本当の大事なことは言葉では伝えられないものであると荘子は言いたいのだ。

  目で見る色や形、耳で聞く物の呼び名や音声などでは事物の本当の姿は十分つかめない。たとえば、ぬくもり、肌ざわり、手加減など様々な微々たる要素が重要な働きをなしているのだ。

  私の場合、野菜作りの参考書は多くあるが、肝心なことは抜けていて、役に立たないのを痛感したものである。

  {荘子 天道篇}より
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猪們的評議(楽しみは一心に何かに打ち込んでいる時突然訪れる) [中国の寓話]

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猪們的評議
  ある若者達のグループは「何か楽しいことがないだろうか?」とあちこち探し歩いたが、かえって悩みや悲しみ、痛みに出くわすばかりで、ほんの刹那的な楽しさのむなしさに、やりきれない思いを抱いていた。

  そんなある時、彼等の先生であるソクラテスに聞いてみた;「楽しいことって結局のところ一体どこにあるの?」
  ソクラテス曰く;「先ず、私と貴方達みんな一緒になって一艘の舟を作りましょう」ともちかけた。

  若者達はひとまず楽しいことを探すのをやめ、舟を造るための道具を探し、山へ入り大きな木をみつけ切り倒した。そして中身をくり抜き一艘の丸木舟が出来上がった。

  舟を水に浮かべソクラテスや若者たちが乗り込み一斉に力を合わせながら拍子をとって掛け声とともに歌を歌ってこぎ進んだ。

  ソクラテス;「皆さん、楽しいですか?」
  若者達は一斉に「楽しい!とても楽しい!」と大声で答えた。

  ソクラテス曰く;「楽しみとはこのようなものだ。それは往々にして忙しく一心に何かに打ち込んでいる時、突然訪れるものなんだよ」

   {作者不明・猪們的評議}より   写真はソクラテス像
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吹牛老人(ほら吹き老人の奇怪なお話) [中国の寓話]

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吹牛老人
  三人の大ぼら吹きの老人がいていつも人を煙に巻いて楽しんでいた。ある日たまたま道で出会って三人が一緒になった。丁度その時、向こうから若者が歩いてきて三人の老人に挨拶した。

  若者;「皆さんは今年で何才になられましたか?」と礼儀正しくきいた。

  一番目の白髪の老人は;「わしの年か?とっくに忘れたよ、子供の頃に盤古とよく一緒に遊んだものさ、盤古はわしの事を兄貴と呼んでいたなあ」。

  若者は何と長寿なんだろうとびっくりして飛び上がった。

  二番目の老人は;「わしは年なんか数えたことなんかないよ、そう言えば何回も繰り返して大海が干上がって田畑になったなあ、その都度わしは長者になり、大きな家に入りきらないほど財宝が貯まったもんじゃ」。

  若者はこの老人は神仙に違いないと思った。

  三番目の老人は;「聞いたことがあるか?あの仙桃の話。あの桃はな一万年かかってやっと熟すのじゃ。わしは今まで数えきれんほど食べたものじゃが、捨てた種が積もりつもってあの崑崙山と同じ高さになったものじゃ」。

  若者はもう驚かなかった。この三人は元来「ほら吹き仙人」なのだ!

  ほら吹きは奇怪なストーリを語るが、一体どんな意義が有るものだろうか?この話のようにありえない長寿と、短い命のかげろうや、むくげ、或いは一夜茸のようなはかないものとの間にどんな違いがあると考えればいいのだろうか?

  なに?荒唐無稽だから考えない方がいいって?!そりゃそうだ!

  {なお、盤古とは神話上の宇宙を初めて開いた男。詳しくは「盤古天地を開く」を見て下さい。ついでに吹牛とは中国語でほらを吹く意味}}

   {中国古代寓言・陳金安}より
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 視 肉 (神秘で珍奇な薬) [中国の寓話]

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  南方にある蒼梧山は古代の天子だった舜とその子の商均が埋葬されている所である。時移り荒野と化したここは、奇禽怪獣が出没する魔界とも言える。

  そこには「紫貝(後に貨幣となる珍しい貝)」、鷹、熊、象、虎、豹、狼、「離朱(一種の神鳥で長い三本の足がある)」、「神蛇(一見車の心棒に似ていて頭が赤く体が紫色の蛇)」、それに視肉など奇怪な生き物が棲息している。

  その内、「視肉」はとても変わっていて、見たところまるで「一塊の肉」のようで、形は牛の肝臓みたい。二つの小さな目がある。

  この「視肉」の肉はいくら食べても食べきれないのだ。どうしてかと言うと、食べるしりからすぐに別の場所から生えてきて、元の原形に復帰するので気味が悪く食べる気がしないそうだ。

  学者の研究によると、「視肉」は生物と菌類の中間物で原質体生物に属し、人類と一切の生物の祖先だそうだ。

  本草網目にある「肉芝」がそれで、神秘で珍奇な薬として珍重されている。

  {山海経}より
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燧人取火;(火の発見物語) [中国の寓話]

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  大昔である上古の時代、まだ火がなく生のままで生臭い嫌なにおいがするものを食べ、体を痛め病気になり死ぬ人が多かった。

  そんな時、「燧人氏」と言う名の聖人が現れ木を擦って火を起こし、煮炊きをして民に食べさせた。するとみな健康になり人々は喜んで「王」とならしめ、「燧人氏」とよんだ。

  さて、この「燧人氏」とは?

  この時代、「伏義」という神様がいて、苦しんでいる人間に火を与えようとされ、ある若者に;「遥かな西に{燧明}という国があり、そこに{火の種}があるので取ってきなさい」と教えた。

  若者は苦難な旅の末「燧明国」に着いたが、昼夜の区別がなく暗やみばかりの国で「火の種」などなく失望し「燧木」という木の下に座り眠りこんでしまった。

  突然何かが光るので目が醒めよくよく探してみると、それはこの「燧木」に止まった鳥が枝をくちばしでつつくたびに火花がでたのだった。若者は真似をして木を擦ると同じように火花がでた。

  若者は故郷に帰り皆にこの火を起こす方法を教えた。後に若者は「燧人氏」とよばれ聖人と崇められた。

  ついでに、古代神話に聖人として「三皇五帝」があり、その三皇の一人が「燧人氏」であり、あとの二人は「伏義氏」と「神農氏」である。

  {韓非子 五蠹篇・その他}より
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対牛弾琴 (猫に小判)と同じ意 [中国の寓話]

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戦国時代、「公明儀」という名の音楽家がいました。作曲と演奏ができ、とりわけ七弦の琴を弾くと優美で人を感動させ、多くの人たちから賞賛を浴びていました。
  
  ある天気の良い日、琴をかかえ郊外へ出かけ、春風の中、柳がゆれ牛が草をはむ野原へやってきました。彼は牛に聴かせるため{清角之操}なる曲を奏でました。

  でも牛は興味をしめすでもなくただ黙々と草をはんでいるだけでした。

  彼はテンポをかえ高低をかえ、持てる限りの技を使い牛の関心を引こうとしましたが、牛は時々尻尾を振りアブを追い払ったりしていて相手にされず、しまいには悠々と他の草の方に歩いていきました。

  彼は面白くなく、怒りがこみ上げてきたり、力不足を感じたりして自信を失いました。友達は;「そんなに怒ったりがっかりしなくていいよ、牛に音楽の良さなど分からないよ。君はただ相手を間違えただけなのだ」と慰めた。

  この「対牛弾琴」の話は「ネコに小判」のたぐいで、道理の分からない人に道理を説いたり、自らいざこざの種をまくのを戒める「四字熟語」として親しまれてきました。

   {弘明集}より
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